移民入境後の生活
1996年7月、無事移民の許可が下り、我々は家族でカナダに正式のランディングをした。初めは皆、観光ビザで入り、移民のビザを入手すると同時に、カナダとアメリカのボーダーを越えて一度、アメリカに入り、又、カナダに正式な移民者として、戻ってきた。
我が家からは一番近いアメリカのボーダーは40分ぐらいで、地続き。アメリカとの行き来はとても簡単だ。 ボストンやニューヨークはトロントより近く、一泊どまりぐらいで、簡単に往復できる。
こうして、我が家の移民という一大ミッションは遂行され、1997年の冬から、私は、本格的に拠点をカナダのモントリオール郊外に移した。地球人は大学3年生の終わりを迎え、そろそろ最後の一年に掛る頃だった。
私が1997年1月、拠点をこちらに移し、本格的に住み始めてからは、地球人の友人が引きも切らずに訪れるようになっていった。英語教育の小学校時代の再来で、地球人はとにかく友達を家に呼ぶのが大好きだった。
すでに、モントリオールのアパート時代も、私が滞在している間は、気の合った仲間達を食事に招くのが好きだった地球人は、家を持って、益々友達を大勢招くようになった。週末になると、私は地球人の友人の来訪に備える日日が始まった。地元でも、ホッケー仲間などの来訪も多かった。
その頃からは、家から遠いモントリオールの大学に、効率よく出かける為に、授業をとる日を3日ぐらいに集中させて、残りの日々は、家を中心に地元のホッケークラブに参加して試合をしたり、アルバイトをしたり、チビッコホッケーチームのコーチをしたりして過ごしていた。
相変わらず、じっとしていない地球人は、向かいのスキー場へもシーズンパスを買って、よく出かけていた。やはり、スポーツ好きの地球人にとっては、ここはパラダイスだったのだろう。
初夏になると、ゴルフを始めた。最初の年は、我が家の前のゴルフ場のクラブメンバーになり、すでにこの頃には、日本の旅館をたたんで、隣の家(地続き)に一家で住んでいた兄と、近所の人たちを交え、ゴルフもよく楽しんでいた。
この頃からは、銀行や公共機関との交渉事、あらゆる家の手続き(保険その他)などは、地球人の名義で行われ、隣の兄達一家のお世話も含め、地球人は完全に一家の中心人物で、実質的な主だった。
そして、私の大学の同僚の息子さんが、10歳で、モントリオールの郊外の私立校に留学する際には、保証人兼親代わりとして入学交渉に臨み、校長先生の心配に対して、「自分自身の経験から来る感想と考え」を力説し、入学許可を取得した。この時は、「留学経験者の貴方が親代わりになるならOKする!!」と言われ、20歳そこそこで、パパがわりになった。
こちらの学寮は大抵、週末は子供を預かってくれない。週末は適当な保護者の家に戻ることが義務付けられている。そこで、この少年のご両親が正式に移民してくるまで、我が家に一年間、この少年を預かり、同居した。
ともあれ、移民後、地球人は隣の家に住む私の兄の家族も含め、自宅を中心に、スポーツ、音楽、趣味、アルバイトと色々な活動に、更に熱心に取り組んでいた。この時、地球人の意見を訊いて、又、ピアノをかった。すでに、こちらで勉強を始めていた弟にも、ドラムセットをプレゼントして、そのドラムは我が家に置かれた。(喧しい音を兄が好まなかったので、我が家に置かれた)。
何事にも興味を持つ地球人は、ドラムにも大いに興味を持ち、本来は弟の為に買い与えたドラムを、購入後すぐから、弟よりも余程熱心に、練習し始めた。そして、瞬くうちに、ドラムの魅力にとり付かれた地球人は、朝から晩まで、色々な雑誌を読んだり、勉強したりしながら、ドラムを叩き続けるようになっていった。
そして、弟が楽しむときには、ピアノで伴奏したり、ギターであわせたりしながら、楽しそうに遊んでいた。この頃から、地球人のドラマー人生が始まった。地球人のブログをご覧になったことがある人は、今、所属しているバンドの記事を、よく目にされると思うが、ドラムに開眼したのは、この頃からだった。
こうして我が家は又、地球人の友人の溜まり場になり、いつも音楽が鳴り響く、賑やか過ぎる家へと変貌していった。
Labels: 4。大学時代(含、秘話)


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